パラオ共和国の紹介

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パラオ共和国とは

パラオ共和国 公式英語表記: Republic of PALAU

パラオは日本の真南3,200Km、北緯3〜9度、東経134〜135度の小さな島々から成る島嶼国である。総面積は約490平方キロ、島の数は200〜300と言われる。
1994年独立、国連加盟国、15の州から成り、首都はコロール。徹底した非核憲法を持つ。

パラオ共和国の位置と地図

地図2地図1 地図3
人種 :カナカ族
人口 :在内パラオ人口約15,000在外パラオ人口約 5,000外国人口約 6,000
言語 :パラオ語/英語日本語は年配者のみ
時差:日本と同じ
通貨:USドル

パラオの歴史

事件
有史以前 不明
1520 マゼラン、グアム島を発見
1579 イギリス人フランシス・ドレイク、パラオに現れる
1710 スペイン人フランシスコ・パディラ、ソンソロル島を発見する
1783 イギリス船アンテロープ号パラオ近海で座礁
1823 コフィン船長率いるイギリス船がパラオ島民の襲撃を受ける
1832 アメリカの捕鯨船メントール号カヤンゲル北方リーフで座礁
1835 ジェームズ・ギボンがコロールに定住
1843 イギリス人シェーン、マラカル島に貿易拠点を築く
1862 南部大酋長アイバドル、イギリス軍艦の協力を得て北部大酋長アルクライを攻撃
1866 イキリス人シェーン、アイバドルに殺される
1867 イギリス艦司令官スティーブンス、シェーン殺害の罪でアイバドルを処刑、西欧諸国の覇権の登場
1878 アメリカ人オキーフ来島
1880 オキーフの船が座礁しアルクライの略奪を受ける
1881 イギリス軍艦がオキーフ事件の賠償を求め2度に渡り来島
1883 イギリス艦司令官ブリッジ、賠償を免じる代わりに2大酋長を和解させる。西欧人覇権の確立
1885 スペイン船が来島、スペイン領有宣言
1891 スペイン宣教師来島、島司を置き統治を開始
1899 米西戦争に敗れたスペインは、パラオ他をドイツに売却
1901 ドイツ島庁開設、ドイツ統治開始
1909 アンガウル島りん鉱石採掘開始
1914 第一次世界大戦、日本がドイツ領「南洋諸島」を占領
1919 ヴェルサイユ条約調印
1920 国際連盟発足、日本の「南洋委任領統治」を承認
1922 民政移管、パラオに南洋庁設置
1929 日本人彫刻家土方久功、パラオに渡る。ストーリーボードの誕生
1941,12月 太平洋戦争勃発
1943 ペリリュー・アンガウル島民のバベルダオブ島への強制移住開始。飢餓の発生
1944,3月 パラオ空襲
1944,7月 サイパン陥落
1944,9月 パラオ、ペリリュー島に米軍上陸、11月日本軍全滅
1945,8月 日本の無条件降伏により太平洋戦争終結
1946 マーシャル諸島ビキニ環礁住民をアメリカが強制移住させる、水爆実験が行われる
1947 国際連合設立、ミクロネシアはアメリカの委任統治領となる
1951 ミクロネシア民政移管
1953 ミクロネシア、東西対立の余波で軍政化
1954 ロンゲラップ・ウトリック環礁住民と第5福竜丸が被爆
1955 パラオ議会設立
1960 国連総会で植民地独立付与宣言
1962 ミクロネシア、再び民政に移管
1965 ミクロネシア議会発足
1969 ミクロネシア独立交渉開始
1972 北マリアナ地区、統一交渉より離脱
1975 北マリアナ地区、米自治領化の住民投票を可決
ミクロネシア議会、連邦憲法草案採択
1978 北マリアナ連邦成立
ミクロネシア憲法草案の住民投票実施、マーシャルとパラオは採択ならず
パラオ憲法制定会議設置
1979 憲法草案採択4地区でミクロネシア連邦成立
マーシャル諸島共和国成立
パラオ憲法草案作成
1981,1月 パラオ共和国憲法施行
非核憲法を巡りアメリカと対立、信託統治の継続
パラオ・レメリク初代大統領選出
1985 レメリク大統領再選、直後に暗殺される、オイッテロン副大統領が代行となる
同年 サリー大統領選出
1986 アメリカ、マーシャル/ミクロネシア連邦の信託統治終了を国連に通告
1988 日本、マーシャル/ミクロネシア連邦を国家承認
同年 サリー大統領暗殺
大統領選挙でエピソン大統領、ナカムラ副大統領選出
1992 ナカムラ大統領当選
1994 住民投票で自由連合協定批准
10月パラオ独立、12月国連加盟
参考資料:上原伸一著/あみのさん発行「海の楽園パラオ」

パラオの国家